「…成る程。原因不明の皮膚病が蔓延していると俺も聞いたことはあるが、まさかここまで深刻な物だとは知らなかった。」
七月に入った土曜日の昼下がり、はアレクサーの部屋で週明けにNGOに提出予定の資料を広げていた
それは前日の夜遅くまで掛けてが纏めたもので、春からの調査結果を四半期単位に区切って記述した初めてのタイプの報告書だった
直接上位の団体に宛てて提出するそれは、本来であれば組織外の人間の目に触れさせるべき物ではない
「…確かに。これを国際機関に突きつけたならば、何らかのリアクションは得られるかもしれないな。」
ソファから投げ出した長い足を組んで、アレクサーは感慨深げに頷いた
遡ること小半時、は資料をアレクサーに提示し、このデータを然るべき筋に送りこの国の窮状をグローバルワイドに知らしめてみてはどうだろうか、
と提案していた
あわよくば国際的援助が得られるかもしれないと言うのがの主張だった
資料に通す目が進むにつれて、の隣に腰掛けたアレクサーの表情は険しくなった
報告書の内容そのものに対して眉を顰めつつも、同時に何か考え込んでいる様子だった
「…どうかしら。勿論NGOの活動規約には触れないように実行する必要はあるけど…。」
歳に不相応な深い皺を刻んだアレクサーの表情を伺いながら、はおそるおそる言葉を絞り出した
「…発想は悪くないと思う。だが、実行するにはいくつか問題点があるかもしれない。」
「…と、言うと?」
「まずはこれを提出する機関をどう選ぶかだ。
国際機関もそれぞれ総ての国の影響力から完全に独立しているかと言えば、そうとは言い切れない。
選択を誤れば、君の立場を悪くするだけに留まらず、近隣諸国のプロパガンダの餌食になるかもしれない。
領土拡大を目論む国は多い。如何にこの国が貧しいとは言え、それでも国は国だからな。
そして、この点に関する限り、我々が所有する情報は無きに等しい。」
アレクサーの言葉に、はがっくりと頭をうなだれた
「そう…よね。確かにその通りだわ。」
「そして、もう一つの問題が、君だ。」
「…私?」
話を自分に返されて、今度はが眉を寄せた
「そう、君だ。
、君の今の立場は一つのNGO団体の職員だ。
仮にこの報告が国際機関に取り上げられて何らかの介入があったとして、それ黙って見ている事の出来ない連中がいるかもしれない。
…判るか?」
の脳裏に、いつかの暴漢達の影がよぎった
「…あの人達ね。」
「そうだ。前にあいつらの事を君に話したが、やつら極左の連中がその事態を面白く思う筈がないだろうな。
元来が、国外勢力の介入を喜ぶ手合いではないのだから。自分たちの手でこの国を変える事こそやつらの真の、そして唯一の狙いだ。」
一旦言葉を切って、アレクサーは下唇を軽く噛んだ
その仕種に、が口を開きかけるのを制止して、アレクサーは更に言葉を続けた
「…俺は、二年前までやつらを統括していた。
血気に逸っていた自分を恥ずかしくも思うが、今思い起こせばやつらは『統治者の子息』である俺の存在を利用していたに違いない。
俺を担ぎ出したクーデターは失敗に終り、一旦は組織も壊滅したかに見えた。…だが、やつらはまだ滅んではいなかった。」
「…そんな…。」
「やつらの組織力は今もまだ侮れない。国際機関の介入があった暁には、必ず情報源を突き止めに動く筈だ。
そして君か、君の所属するNGOに辿り着いた時、君たちを始めとするブルーグラード駐在の多くのNGO団体に如何なる災禍が降り注ぐか。
…更にその結果、我が国が国際的にどのような立場に立たされるか、俺の想像にも難くはない。」
は、軽く頭を抱え込んでいた手を顎の前で組んだ
「彼らの力はまだまだ侮る事は出来ないのね。」
あの晩の出来事を胸中でできるだけ正確に再現して、は軽い身震いに襲われた
…アレクサーがあの時助けてくれなかったら、自分の今は存在しないかもしれない
「…怖かったか?」
怯えた表情を浮かべたの背中に、アレクサーは片腕を回した
薄手の服越しに、サレクサーの腕の熱がの体の中に広がる
「…怖くなかったと言えば嘘になるでしょうね。…でも。」
は顔を上げてアレクサーを見上げた
「アレクサーがいてくれたから。」
の言葉に、アレクサーが眉を顰めた
「…過去形で語るんだな、。」
「ふふ…ごめんなさい。そうね、過去形で話したら貴方に失礼だったかも、ね。」
が肩を竦めて笑うと、アレクサーはの体をぐい、と自分の方へ向かせた
「…俺は二度と君を危険な目に遭わせたく無い。君には君の仕事もあるだろうし、それには危険が付き纏うかもしれない。
…それでも、君は俺の力になってくれると言ってくれた。
だから俺は…何時でも君の事を守っていたいと、そう願っている。」
「アレクサー………。」
「本当は、一時も君を離れたところへ遣りたくないのが俺の偽らざる本音だ。
…だが、そうは行かない時もある。だから、これを君に渡しておきたい。」
アレクサーは、徐に自らの首の後ろに両手を回すと少しゴソゴソと動かして、右手をの前に広げた
アレクサーの大きな掌の上に載っていたのは、何かの紋章が白く彫り込まれた少し大きめの紅い石のペンダントだった
紅い石の表面には、中心から外側に向って幾筋ものシラーが放射状に伸びていた
アレクサーがその掌を傾けると、シラーは少しづつ角度を変える
…石はおそらくスタールビーであろうか
「…これは…?」
「このペンダントは、俺の家に伝わる物だ。代々この国を統治する我が家の紋章が真中に彫り込まれている。
親父を……俺が殺してしまった事で家は没落したも同然だが、この国の人間ならまだこの紋章の意味くらいは判るはずだ。
…少なくともこれがあればやつらも君には手出しできない筈だ。俺の方から手を切ったとは言え、あいつらの中にはまだ俺を統領と仰ぐ者も多い。
もしもの時は、これを見せれば逃げる時間くらいは稼げる筈だ。…それに…。」
そこまで言うと、アレクサーは言葉を詰まらせて急に顔を背けた
アレクサーが顔を背けた方向に、が身体をぐいっと乗り出す
「…それに…?」
アレクサーは暫く顔を更に背けていたが、渋々に向き直った
「…このペンダントは、代々の当主が…その……花嫁に贈るしきたりで…。」
「は…花嫁って……。アレクサー、それじゃあ…その…。」
今度はが顔を赤らめて口をもぐもぐさせた
は最早少女と呼べる年齢では無い。と同じ歳で既に結婚している女性も世界中には沢山いるだろう
…だが、だからと言って突然『花嫁』などと言う単語を自分に向って切り出されたならば、誰だって驚くのも無理からぬ事だろうし、
どきまぎするのが至極当然だろう
…やだ、アレクサーったら急にそんな話題を切り出すなんて…
もちろん、イヤじゃない。…寧ろ…
……でもこんな突然…
は、俯いたまま混乱する胸中を必死に落ち着けようと試みたが、次から次へと湧き上がる複雑な感情に阻まれ、ますます混乱の極みに陥って行った
とにかく何か言わねば、とが俯けた顔を上げると、アレクサーが更にその身を乗り出して空いた左手でぎゅっとの両手を握った
「勿論、君に無理強いするつもりは無い。…その、俺が言っているのはあくまでも将来的な事だから。
良ければ考えてくれ、と言う程度に思ってもらえれば。
…ああ、だが無論、俺が君の事をその…誰よりも大切だと思っていると言う事だけは君に判って貰いたい…。」
言葉の調子こそしどろもどろだが、真剣そのものなアレクサーの表情を間近にして、はようやく一呼吸置くことが出来た
「……ええ、ありがとうアレクサー。…イヤじゃ無い。貴方のその言葉、本当に嬉しい。
その…私の方こそ、いつか…、私で良ければ……。」
の言葉に、アレクサーは固い表情を一変させるとをがばっ、とその胸にかき抱いた
「…ありがとう。俺は…俺は、君と言う人間の存在に心から感謝する。
俺と、ずっと一緒に同じ道を歩んでくれるか?」
「…ええ。貴方と二人なら、それがどんな道でも。」
アレクサーの広い胸板に潰れそうな程に埋もれた顔を上げて、は頷いた
激しさと若さと、そして冷静さ、精悍さを同時に持ち合わせる不思議なこの男を、私はずっと見詰めていよう…この命の終る、その日まで
アレクサーは思い出した様に右手を広げると、手の中の小さなペンダントの金具をの白い首筋の後ろに持って行った
自分以外の人間にペンダントを着けるのは初めてだったので、留め金の位置が上手く合わず、しきりにがさがさとその指先を交差させる
アレクサーのものとも思えないその不器用な様子に、は笑みを洩らしそうになって必死に堪えた
の肩越しに逞しい両腕を伸ばすこと暫く、ようやくアレクサーの指が留め金と引き輪を繋ぐ事に成功した
フッ、と一息ついて、アレクサーはの正面に向き直った
のシャツの襟元から、紅い石が白銀のシラーを放つ
「綺麗な紋章ね。」
「ああ。俺が母親から昔聞いた話では、鷹をあしらった紋章だそうだ。」
「…そうか。これ、お母さんから受け継いだ事になるのね。」
「そうだな。俺の親父が嫁入りしてきた母に贈ったものだからな。」
「…どんな女(ひと)だったの?アレクサーのお母さん。」
のその一言に、アレクサーはどこか懐かしそうな表所を浮かべた
「…優しさと強さを両方持った人だったよ。そうだな…ナターシャは母と良く似ている。
尤も、母はナターシャがまだ物心付く前に病気で亡くなったが…。」
「…ごめんなさい。悲しい事を思い出させてしまったわね。」
が表情のトーンを落すと、アレクサーは微かに笑んだ
「いや、もう随分昔の事だから一向に気に掛けないよ。
…そう言えば、君のお母さんはどんな人なんだ?」
「…母の事は良く憶えていないの。私がまだ2,3歳の頃に事故で亡くなったから。」
「…そうか。俺の方こそ無神経な事を聞いてしまったな。すまない。」
アレクサーは少し落とされたの肩に両の手を置いた
…俺も、そしてこの女(ひと)も悲しい過去を同じくして持っているのだな
この女(ひと)の中に何か俺と似た激しさを感じたのはそのせいかもしれない
強さと、…脆さと。
きつく抱きしめたら炎にでもなってしまいそうな、この女(ひと)を一層輝かせるそんな激しさが失われないように、
俺はこの命の総てをかけてを愛して行きたい
アレクサーはをぐっと引き寄せた
驚いて顔を僅かに上げたの顎に右手を添え、アレクサーはゆっくりとの唇に己の唇を重ねた
アレクサー本人は優しく口付けたつもりだったが、唇越しにじわじわと伝わって来るサレクサーの若い熱には一時意識が朦朧とした
「………愛している。どうか俺と共に…。」
ようやく唇が離れたと思った次の瞬間、アレクサーはスッとその唇をの耳元に持って行って囁いた
の背筋にぞくりとした快感の痺れが走る
「ええ…私も…。」
自らの身体を走り抜ける官能の予感を抑えながら、は衝動に崩れそうな身体をゆっくり戻した
耳の奥でアレクサーの低い声がまだ木霊を放っている
…熱情にこの身をまかせるのは…もう少し後で……
今、アレクサーの熱さを受け入れたら私が崩壊してしまいそう
くらくらとした頭をどうにか現実に引っ張り戻しながら、は遠くないうちにやってくるであろうその予感に己の身体を両腕で抱いた
その日の夕刻、はアレクサーの家を辞して遠い家路に着いていた
家まで送ると言うアレクサーの提案を「まだ少しは明るいから、大丈夫よ。」と断って、は玄関の扉を閉めた
としても、アレクサーに送ってもらうのは無論、嬉しい
だが、なにがしかの理由でアレクサーを警戒しているカノンにだけは、二人の関係を絶対に知られてはならないと危惧していた
あくまでも、自分は「土曜にナターシャと仕事の打ち合わせをしている」のだ
…それに、恋人になってしまった以上、あまりおおっぴらに動けないであろうアレクサーに掛ける迷惑や心配は少しでも軽減したい
は、暮れ行く空を見上げて立ち止まった
指先で自分の唇に触れれば、アレクサーの唇の熱さと低い囁き声が再びこの体中を駆け抜け、幾倍にも増幅する
あの時、アレクサーの総てを受け入れてしまいたい本能と、それを受け入れたら何処かいつもと違う自分を
カノンに悟られてしまいそうで怖いと言う危機感がせめぎ合っていた
…カノンには絶対に、悟られないようにしなければ。アレクサーと私の未来のためにも…!
仄かに暮れ残る空を見上げると、の上気した頬をひんやりとした風が掠めて通り過ぎた
「…いけない、急がないと…。」
少し足早にガルボイグラードの中心部を抜け、郊外へと続く道に曲がった瞬間、の腕が軋んだ
「!!」
古びた建物の影から、何人かの男達が姿を現した
「…あんた達は……!」
忘れる筈の無い顔ぶれに気付き、が低くうめきを漏らす
「よぉ…お嬢さん、俺たちの事、憶えていてくれたんだねぇ。これは重畳、重畳。」
男のうちの一人が、の腕を後ろ手にねじり上げていた
少し細い別の男が、の顎を掴んで吐き捨てる
「…私にまた何の用?あんた達、そうやって他のNGOの人も個別に袋叩きにしてるってわけ?随分お暇なようね。」
「…さぁ、それはどうかな。前は偶然だったが、今回はちょっとお前さんに直接用事があってな。」
顎を掴んでいた男が、の顔を覗き込んだ
「強情だなぁ、お前さんも。」
言うと同時に、ピッとのシャツの襟を引き、上のボタンを2つばかり飛ばした
数時間前にアレクサーに着けてもらったばかりのペンダントの紅い石が、夜目にも美しく数条のシラーを放つ
他の男達に顎で集まるよう合図し、男は石を摘み上げて目を細めた
「…見ろよ、この紋章。やっぱりこの女、ヤツのオンナみたいだぜ。」
の周囲に集まった男達が、男の言葉に一斉にざわめく
「…アンタ、以前はアレクサーの手下じゃなかったの?」
「手下だったともさ。確かにな。」
「じゃあ、なんで…!」
「悪いな、お嬢さん。俺たちも一枚岩じゃない。アレクサーをまだ慕うヤツもいれば、元からそうでもないヤツもいるってことさ。そこは個人差ってやつでな。
…で、俺たちは後者だって訳だ。」
「…アンタ達、私をどうするつもり?」
石を離せと言わんばかりに、は顔を二三度横に振った
「どうしたもんかな…。ククク、安心しな、乱暴に扱うつもりは無い。
お前さんは大事な人質だからな。……アレクサーを呼び出すための、な。」
男はぐい、との顔に自分の顔を近づけてニヤリと嫌らしい笑いを浮かべた
ドスッ
そして次の瞬間、の鳩尾へ向けて、男の拳が鈍い音を立てる
は顔を背けると、激痛のあまり眉間に皺を寄せた
…アレクサー、こんな事になってしまって…
総てを心中で唱え終わる前に、の身体はドサリ、と冷たい石畳に沈み込んだ
日が沈んであたりもとっぷりと暗くなった時分、アレクサーは一人自分の部屋のソファに腰を下ろしていた
今日一日、と交わした会話を思い起こながら、の座っていた辺りをぼんやりとただ見詰めていた
…この腕の中に、が居た
両手に目を遣っての身体の感触を具に思い起こす
「ずっと、俺が君を守る…」
ぽつりと呟いたその刹那、アレクサーの耳にナターシャの悲鳴が轟いた
「……ナターシャ!」
ドアを開けて階下に駆け下りたアレクサーの前に、ナターシャはぺたりとへたり込んでいた
ナターシャの顔は蒼白で、血の気が総て失せてしまった様だった
「どうした、ナターシャ!」
アレクサーが駆け寄ると、ナターシャは白い手をがくがくと震わせながら一枚の紙切れを渡した
「…表から何か音がしたから行ってみたら、こ、これが玄関のドアに、ナイフで…。」
それは、嘗ての配下の名による脅迫状だった
紙の端から滴っているのは…人間の、赤い血液
血染めにされた紙の表面はまだ乾いておらず、幾時も時間が経っていない事だけが窺える
「……!………俺の認識が甘かったか。なんてことだ!!」
認(したた)められた文面に、アレクサーは声を上げる事を厭わずその憤りを発した
「…兄さん!何処へ行くの!?」
「知れた事だ。を助けに行く。…後は頼んだぞ、ナターシャ!」
妹の制止を振り切り、金色の後ろ髪を靡かせながらアレクサーは表へと飛び出した
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